top of page
taka4816

SNS時代の戦争について:ロシアによるウクライナ侵攻を止められるのは誰なのか?

更新日:2022年4月10日

ロシアのウクライナ侵攻が始まって、1か月半ほどが経つ。その間、多くのウクライナ市民が犠牲になっているが、特に首都キーウ(キエフ)近郊からロシア軍が撤退した後に、子供や女性を含む大勢の市民が虐殺されていた事実が明るみになったことで、ロシアによる戦争犯罪に対する非難の声は、ますます高まっている。


しかし、こうした国際社会の批判に関わらず、ロシアは自国への経済制裁や、国際的な孤立した現状に強く反発している。それどころか、キーウ近郊での虐殺は「ウクライナによるでっち上げだ」とまで主張している。


現時点で、ロシアがすぐにウクライナから撤退するとは考えられず、戦争終結に向かう見通しは立っていない。ロシア軍は首都周辺から撤退したあと、逆に東部や南部への侵攻を強める様子さえ見せている。深刻な人道危機が報じられている南東部のマリウポリなどで、今後さらに悲惨な状況になる懸念が強まっている。


それにしても、2年以上に及ぶコロナ禍で深刻なダメージを受けた国際社会に、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、さらなる精神的ダメージを与えるものとなった。何といっても、ウクライナ国内から発信されるSNSを通じて、悲惨な戦争の現実が、剥き出しの状態のまま、全世界に拡散しているのだ。このようなことは、人類史上、かつてなかったことであろう。21世紀初頭のSNS全盛期における、まったく新しい戦争の姿を、我々は今まさに目にしているのだ。


ところが、SNSを通じて全世界に拡散される戦争の現実は、もはや覆い隠すことなど不可能なはずなのに、この戦争を推し進めるプーチン政権の姿勢は、多くのロシア国民に支持されているという。民主主義とは名ばかりの、強権的なプーチン政権による厳しい情報統制や、プロパガンダによるところが大きいが、ロシア国内でもSNSは広く普及しているのは事実だ。開戦当初は、国内メディアへの統制を掻い潜って、西側諸国から発信される情報が共有され、ロシア国内でも反戦デモが各地で起きていた。しかし、厳しい取り締まりのために、今はすっかり鳴りを潜めてしまった。逆に、著名なスポーツ選手らのSNSで愛国心を鼓舞する言葉が連発され、ロシア国内では、むしろそちらが拡散しているようだ。


戦時中の日本も恐らくそうだったのだろうが、愛すべき自分の国が、諸外国から不当に除け者にされ、とんでもない仕打ちを受けていている。今こそ、自分たちは、その不条理に真っ向から立ち向かい、自分の国の正義を証明するため、戦わねばならないのだと。まさに「歪んだナショナリズム」が、ロシア国内向けに、意図的に創出され、育まれている。


かたや、悲惨で残酷な戦争の現実が剥きだしで拡散し、全世界の人々に深い悲しみと、強い怒りを呼び起こして、ロシアへの強い非難と言葉となっているのに、かたや、ロシア国内では、愛国心を鼓舞する言葉が拡散され、共有されている。


誰もが手軽に情報の発信者となれるSNS全盛の時代に、なぜ、これほどまでに根深い「情報の断絶」が成立してしまうのか。そのこと自体、本当に信じられないと感じる人は多いはずだ。


少なくとも、ロシア国民の多くが、プーチン政権による国内向けのプロパガンダに振り回され、自国をめぐる国際関係での「認知のすり替え」の餌食になっていることは確かであるし、表面的には、この「情報の断絶」の問題は、そのように解釈できよう。しかし、問題の本質は、もっと根深いところにあるのではなかろうか。


IT技術の高度な発達とSNSの普及、浸透は、人々の世界認識を大きく変え、自分と他者との関係性、自分と社会との関係性を、大きく変えた。しかし、SNSを通じて拡散され、共有される情報も、近代に始まる国民国家の基本的な枠組みと、それを支える権力構造を脅かすまでには至っていないのだ。こうした枠組みが大きく変わらない限り、SNSの隆盛は、むしろ「情報の断絶」を助長する。情報技術の発達が21世紀の世界にもたらした皮肉な現実だったと言えよう。


情報技術の発達、SNSの普及は、真に人類に平和と幸福をもたらすものなのか。今こそ、改めて問い直してみるべきときかもしれない。もしくは、情報を発信し、受信する人間の品位とか、情報を管理する国家の品格こそが、技術の発達よりも、はるかに重要な問題だったと、今こそ人類は気づくべきではなかろうか。


人間の尊厳への深い洞察と、高い人権意識がなければ、どれだけ技術が発達しても、人類は、安定的な平和と幸福を維持できない。そのことを、今回のウクライナ戦争は、最悪の形で証明してしまったとも言えよう。


そもそも、1990年代初頭に、ソ連崩壊によって一気に資本主義社会に組み込まれることとなったロシアにも、長い歴史の中で培われた文化遺産がある。チェーホフ、トルストイ、ドストエフスキー、チャイコフスキーなど、ロシアの偉大な先人たちが、人間性に対する深い洞察を重ね、生み出してきた数々の文学、音楽、芸術作品、学問などの成果は、どれもロシアが世界に誇るべき、全人類共通の文化遺産である。また、ロシア文化の深い精神性は、今でも、ロシアの社会と国民文化の中に、連綿として受け継がれているはずであるし、そう信じたい。


しかし、どれほど崇高で、全人類的な価値を有する文化遺産も、その価値を現代に生きる我々が、認知し、さらに高めようとし、現代の政治、経済、科学などの各方面に生かし、開花させようとしなければ、先人たちが注いだ崇高な精神は、無駄になってしまう。


考えてみれば、四大文明をはじめ、古代ギリシア、古代ローマなどに生まれ、今日まで受け継がれてきた、偉大な思想、哲学、宗教、文学、芸術などの価値も、その文化伝統の中で生きる我々現代人が、謙虚に受け止め、守り、伝え、発展させて、さらに深めていこうとしなければ、その価値は失われる。そして、現代に生きる我々の幸福と社会の安定、平和にも貢献しないし、意味をなさないのである。


ロシア国民には、今こそ、ロシアの先人たちが育んだ文化遺産と、そこに込められた高度な精神性、人間に対する深い洞察の眼を、今こそ再び開眼させてほしいと願う。


そして、現政権の展開するプロパガンダ、歪んだナショナリズムに目を曇らせず、人間と社会の真実への眼を取り戻すことで、自分たちの国が始めてしまった侵略行為と、間接的に手を染めてしまった殺戮の連鎖を、一刻も早く断ち切る決断をしてほしい。

閲覧数:58回0件のコメント

Comments


bottom of page